じゃがたらお春①

岩波文庫から出ている長崎の学者・西川如見の「長崎夜話草」に鎖国令によって、ジャガタラに追放された混血少女「お春」の女友達「おたつ」に宛てた手紙が収められている。また角川文庫18「日本史探訪」、中公文庫「日本の歴史」14鎖国等にも取り上げられている。

画像


「千はやふる神無月(かみなづき)とよ うらめしの嵐や まだ宵月(よいづき)の空もうちくもり しぐれとともにふる里を出(いで)し その日をかぎりとなし 又ふみも見じあし原の 浦路はるかにへだたれど かよふ心のおくれねば?・・中略・・
あら 日本恋しや ゆかしや みたや 〱 〱  

じゃがたら はる より

 日本にて
 おたつ 様 まゐる」

(注)千はやふる=神、宇治の枕詞、神無月=旧暦10月、あし原の=日本からの、浦路=浦べ・海辺に沿った道・海路、かよふ心=相手に届く心、ふみも見じ=行ったこともない・手紙すら見られない(踏み・文 縁語)、日本にて=日本の長崎におられる

じゃがたらとは、今のインドネシア ジャワ島(当時オランダ領植民地)のことで、首都は当時バタビア(今のジャカルタ)。寛永19年(1639)年秋、混血児とその父母32人が、長崎を追放され平戸に送られ、神無月(旧暦10月)オランダ船ブレタ号で平戸を出港、ジャカルタに到着したのは翌、寛永20年1月1日のことであった。

この中に、日―伊 混血のお春、その姉お万、その母洗礼名マリア(日本名不明)がいた。お春・お万姉妹の父はニコラス・マリンと言うイタリア人航海士であったが、寛永19年当時の消息は不明。上のジャガタラお春の手紙は、あるいは西川如見の創作かと思われていたが、昭和初期、東大教授 岩生成一(いわおせいいち)氏のジャカルタの国立文書舘探求によって、お春、お万の結婚届や、遺言書(オランダ語)が発見され、お春の実在が確認された。

(お春 1625~1697)
1625年長崎でイタリア人の父と日本人の母の間に生まれる。姉お万。キリシタンであった。1639年秋、一家3人で長崎を追放され、ジャカルタに向かう。1644年21歳で平戸生まれの東インド会社の事務員補(後税関長に昇進)混血のシモン・シモンセンとジャカルタで結婚、名も、ゼロウニマ・シモンセンとなり、娘や、孫たちとともに金銭的には裕福に暮らし、元禄10年(1697)頃ジャカルタで72歳でなくなったようだ。しかし日本の事は片時も忘れることなく、日本を恋い慕ったであろう事は想像できる。じゃがたら(ジャワ島)から故郷に送られた手紙を「じゃがたら文(ふみ)」というようだ。

(歌謡曲・長崎物語)昭和14年(1639)、このじゃがたら文のことが大きく取り上げられ、人々の感動を誘い、ついに、「長崎物語」という歌謡曲が誕生した。(一説昭和13年とも)

じゃがたらお春が、長崎を追放されたのが、上の文(ふみ)のように寛永19年(1639)神無月(旧暦10月)の事とすれば、丁度、曼珠沙華(まんじゅしゃげ・彼岸花))の咲く季節であり、可憐な曼珠沙華の花が、追放されてふるさとを追われた、ジャガタラお春を思い出させるのか、非常に民衆に受けた。歌詞は

「長崎物語」梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲(1番と4番のみ)

1.赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(おらんだ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練の出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

4.平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

長崎物語動画、台湾YOUKU:(長崎女人)
http://v.youku.com/v_show/id_XNjQwNTQ5NzY=.html

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 4

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント