西行法師の春を恋うる歌③

西行法師(1118~1190)の俗名佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清が
いる。藤原北家・魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の
末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんの
じょう)・検非違使(けびいし)を勤めた由緒正しき富裕な佐藤一族の出。
父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。保延元年(1135)、18歳で兵衛尉に
任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどする
が、保延6年、23歳で出家した。北面の武士とは、院の御所の北面に置
かれた警護の武士のことで、白河院の時に創始された。

出家の動機として、
一族の左衛門尉憲康と前日まで鳥羽院に元気に勤務していたのに、翌朝彼の
頓死に至ったったことからとも、また高貴な女人に報われぬ愛をささげたため
とも、政争に明け暮れる現世に見切りをつけたためとも言われている。
出家のとき、彼には妻と2人の女子がいた。そのうちの4歳になる女子を
彼は特に可愛がり、その子も父に慕いよってまつわりつくのを縁側から蹴落
として家を出て行ったと伝わる。

初めの法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しん
でいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安
五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠
とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られる
が、僧としての身分は低く、歌人としても無名だったため「よみびと知らず」
としての入集であった。50歳になる仁安2年(1167)から3年頃、中国・
四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承4年(1180)頃、源平争乱の
さなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治2年(1186)、
東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。
途中、鎌倉で源頼朝に謁した。

70歳になる文治6年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来
の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、
こちらは俊成の息子で、新古今集・小倉百人一首の選者藤原定家に判詞を
依頼し(文治5年に完成、外宮に奉納される)。文治4年(1188)俊成が撰し
後白河院に奏覧した『千載集』には円位法師の名で入集、18首を採られた。最晩年は
河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、文治6年(4月11日
改元して建久元年、1190)2月16日、同寺にて入寂した。

柿本人麻呂と並んで歌聖とされ、宗祇、松尾芭蕉等に深い影響を与えた。
歌は平明で調べもよく、時代を超えた心酔者が多い。仏教に深く帰依したバックボーンに、自然・人間を見る目は滋愛にみちて、これを美しく和歌に詠む能力は他に類を見ない。

後鳥羽院は「御口伝」に評して「西行は面白くて、しかも仏道に対する志も殊に深い。現存することもなかなかむずかしく、将来出てくるのもむずかしいような生得の歌人のように見受けられる。初心の人の真似できるような歌人ではない」とべた誉めである。

家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心
中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゅう)』及び
『残集(ざんしゅう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』
『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する(以下
「西行家集」と総称)。勅撰集は詞花集に初出、新古今集では九十五首
の最多入集歌人。二十一代集に計267首を選ばれている。歌論
書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』があり、また西行に
まつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』などがある。

Wiki西行法師:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C

画像


画像は修業中の西行像に小倉百人一首86番の和歌
「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」を散らしている。

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