西行法師の春を恋うる歌④

 阪急電車の上新庄駅で降り、そこからバスで五分。「江口の君堂というバス停で降りるとすぐに、江口の君堂の参道となります。

画像


 この寺の正式名称は「宝林山 普賢院 寂光寺」。西行法師と歌を交わした遊女・江口の君(妙の前)が仏門に入って創立した、天台宗の寺だと伝えられています。
江戸時代の難波(なにわ)の博学者・尾崎雅嘉の著わした「百人一首一夕話」によると、治承2(1178)年9月西行は、ある僧を伴って西国におもむかれる時摂津の国、淀川と神崎川の分基点付近の江口に差し掛かった時、にわか雨に合い、ある家の入り口に立ってしばし宿を貸してくれるように頼んだところ、断られたので、

世の中を厭(いと)うまでこそかたからめ
     仮の宿りを惜しむ君かな
   (世を厭うて出家せよと頼むなら難しいことでしょうが、それにつけても一夜の宿を貸し惜しむあなたですね)

詠まれるとその遊女は笑って

  世を厭う人とし聞けば
     仮の宿に心とむなと思うばかりぞ
   (世を厭うお方と聞けば私宅の仮の宿にお心を留めないで下さいなと思うばかりです)

と返して急ぎ家の中に招き入れてくれました。家の主は年の頃40くらいの、みめ優しい女性である。その以後は歌の道について話したり、自分は遊女の生涯に落ちぶれて、いかなる前世の報いかと思い悩んでいるというような話になったようです。一説によると、宿を借りるように頼んだ相手は尼さんだったとも言います。この寺は妙の前により創設、後の江戸時代になって、普門比丘尼という尼が日蓮宗に改宗しました。江口の君ゆかりの寺らしく、現在でも、日蓮宗には珍しい尼寺として続いています。

 江口の君・妙の前は、平資盛(すけもり)の娘とも、また藤原為盛の娘とも伝えられています。なぜ一応都の貴族の娘であった妙が、都を離れ江口にやって来たのかは分かりませんが、ここが彼女の乳母の故郷だったからとも、叔母である濡(みお)之禅尼を頼って来たからだとも言われています。
 落剥した身を歎いていたのもつかの間、生きていくために、妙の前は旅人相手に春を売ぐ、遊女となりました。しかし西行との邂逅がきっかけとなった妙は、仏門に入る決心をします。そして名を光相比丘尼と改め、江口の里に庵を結びました。

 妙はその余生を、この里の遊女や白拍子たちの悩みを聞いたり、相談に乗ったりして過ごしたと伝えられています。そしてその没後、江口の里に済む遊女達は、妙を慕い、その冥福を祈って庵の後に菩提寺を立てました。それが今も残るこの、江口の君堂だと、寂光寺の縁起は伝えます。この物語は後、謡曲「江口」になりました。謡曲の中では妙は、普賢菩薩の化身として描かれています。

 寂光寺には、狩野元信の描いた「妙の前の像」の絵や、木造の妙の像が寺宝として大切に守り継がれています。毎年四月十四日の妙の命日には、この絵が特別公開されます。また、詩歌管弦の道に優れた妙の前のお寺にふさわしく、歌人・俳人の崇敬も集め、ここの書院では俳句の会などが良く行われるそうです。
 旅の歌人西行を尊敬し、師と敬った俳聖・松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅の終り頃、ある宿で襖越しに洩れる声を聞き、相客が新潟の遊女だという事を知ります。

 この時芭蕉の頭をよぎったのが、西行と江口の遊女・妙の出会いでした。芭蕉は、世を捨てたに等しい身の上の自分を月に例え、はかなく花と咲く身の遊女を萩の花に例えて一句詠みました。

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月

 この時芭蕉は、妙に宿を借るために声をかけた西行と自分とをだぶらせて、頭の中で隣の部屋の遊女に声をかける空想をして楽しんだのではないでしょうか。

三善貞司・江口の君・妙:
(上)http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/101218/20101218034.html
(下)http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/101225/20101225035.html

この記事へのコメント

2011年02月13日 13:57
hirokatoさん、こんにちは!!
すごいですね、即興で歌を詠み、またそれに対して歌を詠んで返すなんて…
私などでは、歌を読んでくださった方の心が読めませんよ。
それに、遊女って言葉のイメージからして、現在と違って
昔は教養があったんですね。
私も、どんな境遇であっても、教養は磨かないとって思いました。。
2011年02月14日 04:04
じゅんちゃん、こんにちは。

早速コメを頂き厚くお礼申し上げます。遊女にも色々あって、上流階級のみをお得意に持っていた人もいたことでしょうね。一般の男は自分の欲を満たしてくれればそれでよかったのではないでしょうか?