西行法師の春を恋うる歌⑥

「奥の細道」陰暦4月20日 那須野での

「田一枚植えて立ち去る柳かな」 芭蕉

の那須野での句は解釈の別れる句である。
芭蕉がということであれば、この句は素直に、芭蕉が田を植えて立ち去ったのを柳が見送ってくれたという事になるのだろうが、そのように解釈をするのは適切でない。

何故なら、芭蕉がこの地に立ち寄ったのは、西行が訪れたという言い伝えのある土地であったからであり、風流を経験するために田植えをしに立ち寄ったものではないからである。

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西行法師画像、背景に西行の「三夕の歌」を散らしている。
「心無き身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」 西行

西行は京に帰ってから、柳の木陰にたたずんだ気持ちで

「道野辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ち止まりつれ」 西行

という歌を詠んだ。
この歌は、山家集や新古今集に採録されている歌として名高い。実際には西行が帰洛して後、鳥羽殿の障子絵に讃を求められた時詠んだものともいう。

芭蕉は、たとえそれが、言い伝えだけの何の根拠もない伝承地であったとしても、西行と同じ場所に立ち、同じ心持ちになりたかったに違いない。
 
この場所とは、現在の地名で言うなら栃木県那須郡那須町芦野、旧国名では下野(しもつけ)の国である。
言い伝えを守る土地の人によって、「遊行柳」と名付けられた何代目かの柳が、今もその雰囲気を保ち続けていて、周囲は芭蕉が見たときと同じ田園風景が広がっている。

遊行柳とは、室町時代の終わり、永正11(1514)年に初演された能楽「遊行柳」に基づくものであって、西行とは直接には関係はない。

全く関係がないかというとそうでもなく、この柳の精は、当地を訪れた第19代遊行上人尊皓(そんこう)に対して、昔、西行が木陰でたたずんだこと、中国の故事などを語るのである。

その能の物語の設定地は、白河の関を過ぎて程ない場所となっているので、現在遊行柳がある場所ではないことは明らかである。

何故伝説地が、能に取り入れられるとき那須の芦野から入れ替わったのかは定かではない。
芦野という土地はいかにも湿地帯の地名であり、水辺を好む柳が立派に育っていて、崇敬を受けるような巨樹になっていたのかも知れない。

能の「遊行柳」とは時宗の19代尊皓上人(そんこうしょうにん)が文明3(1471)年教えを広めようと奥羽巡教の途中、当地で老翁と出会い、朽木の柳に案内される。

誰も通らなくなった草の生えた道を進むと、古い塚があり、そこには確かに一本の柳 の木があった。
老翁は、柳のいわれを語り、文治3(1187)年の頃、西行が立ち寄った柳であること等を告げ消えた。
尊皓上人が、十遍の念仏を唱えると老翁が再び姿を現し、礼の舞を舞って消え去ると、そこには一本の朽ちた柳の木が立っているだけであった、という話である。

なお時宗の初代遊行上人は一遍である。

諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。時宗19代の尊皓上人(そんこうしょうにん)が当地巡教後、能に作られ永正11(1514)年初演、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたこ
とは余りにも有名である。

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案内板にある「非情物の成仏談」「崇拝仏教史的発展」等というのは巨樹や特定の木々に、精霊が宿るという、古くからのアニミズム信仰である。特に、枝が垂れる桜や柳には、「田の神」と結びつけられたという言い伝えが多い。
山から里の木々に降臨してきた田の神が、枝を伝わって地面に降り、地に力を与え稲を育てるのである。

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芭蕉が奥州を歩いていたのは、まさにそうした田植えの時期であった。
芭蕉は、当地の郡主であり俳諧の弟子である故・戸部(こほう何がし=芦野民部資俊あしのみんぶすけとし)のすすめもあり、西行をイメージして訪れたのだから、当然この遊行柳の下にたたずんだことであろう。
そこで芭蕉が眼前に見たものは、田植えをする地元の早乙女であったろう。

なお奥の細道で郡主名を「なにがし」と名を伏せているのは、「細道」執筆の頃、芦野民部資俊は亡くなっており、新領主に遠慮したためであろうか。

一句目の田一枚の句は、

  (早乙女が)田一枚(を)植えて(芭蕉が)立ち去る

となるのだが、そうなると主語が2つになって、芭蕉らしくない破格の句になってしまう。
 
柳が付け足しのようになってしまった句をどのように解したらいいのであろうか。
 一説に、この初案は

   田一枚植えて立ち寄る柳かな

であったとも言われていて、こちらの歌を推す者も多い。だがこれだと、西行との絡みがまるで薄れてしまう。
芭蕉は、西行と同じ位置に立っているのだから、西行がそうしたように江戸をたって1ヵ月ほどの苦難の徒歩の旅の途中に「柳の陰に立ち止ま」り、古の伝説をしのび、西行の境地を実体験して感無量、しばしの安らぎを得る境地を分かち合ったに違いない。

そうしたことを前提としてこの句を鑑賞すれば、芭蕉は西行と同じように柳の元で「しばしとてこそ立ち止まりつれ」た結果、早乙女達が田一枚を植えて立ち去っていたと解する方がよいような気がする。

そのことに気が付いて芭蕉も柳の元を離れたことであろう。
これから、芭蕉の本当の奥の細道の旅が始まるのである。この伝説を時系列に並べてみると、

文治3?(1187)年春、西行が白河の関通過
文明3?(1471)年頃、時宗十九代の尊皓上人が当地方巡教
永正11(1514)年に能楽「遊行柳」が初演
元禄2(1689)年芭蕉が遊行柳を通過

こうしてみると「奥の細道」は500年ほどの歌枕の歴史を踏まえての労作である。単なる伝説といっても時代を重ねると伝説の方が、おも味を帯びて一人歩きしだす例といえよう。

なお季語「柳」は春を表している。

ながながと西行の春を恋うる気持ちについて述べ、芭蕉の句に行きついたが本稿は一応これにて終りとさせていただきたいと思います。駄文に付き合っていただいてありがとうございました。なおネット上の諸先輩の貴重なお説を引用させていただいたことを付記し厚くお礼申し上げます。

この記事へのコメント

山田民雄
2013年09月06日 19:04
タイトルに『西行法師の春を恋うる歌』とあったから
「道野辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ち止まりつれ」
を解説してくれるのかと期待したら、一切それが無いので開いた口が塞がりません。

「田一枚植えて立ち去る柳かな」 つまり芭蕉の句を解説してくれるのね。


「芭蕉は、西行と同じ場所に立ち、同じ心持ちになりたかったに違いない。」とのこと。・・・そうでしょうか?

普通、西行ファンは(西行ファンにかぎりませんが)、西行が立ち止まったと同じ柳の陰に立ったら、西行が何を見、何を考え、何をしたかを考えるものです。

芭蕉も同じ事をしたんだと思います。
そしてその考えた事を素直に詠んだのが「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句だと思います。

「田一枚植(えるくらいの時間だろうか?西行がこの木陰に立ち止まって、そし)て立去る柳かな」

(芭蕉の感想)17文字に収まらないので苦労しました。
山田民雄
2013年09月06日 20:59
謡曲[遊行柳]の「朽ち木の柳」が芦野の柳にこじつけられたのはいつか?
(答)芦野藩の江戸屋敷が作られ、藩士が江戸で初めて能の「遊行柳」を見て以降。1600年代前半のこと。

芦野の柳を「遊行柳」って言うでしょう。芦野で言い始めた当初から謡曲名を柳の名前にしてるんです。

誰がこじつけたのか?
(答)こじつけた責任者は当時の芦野藩主・芦野資俊。

こじつける目的は?
(答)芦野の知名度をアップすること。
観光収入をあげるという実利まで意図したかどうかはわかりません。

「この所の郡守戸部某のこの柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふ」(奥の細道)
藩主・芦野資俊が江戸で盛んにトップセールスしていた様子がうかがえます。
「兼載松」(兼載庵跡)の方は、江戸時代、芦野の知名度アップにかなり寄与したようです。

蛇足
時宗十九代の尊皓上人云々の件。
幕末に江戸在住の学者が言い出したと思われる、いい加減な話です。
出どころは、[下野国誌](1850年)です。